KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

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ブッダが悟りを開いた「ヴィパッサナー瞑想」10日間コースに行ってきた!

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10日間の(沈黙の)瞑想を終えて一緒にいた仲間と。

ブッダの教えた「生きる技」「心のトレーニング」

ヴィパッサナー瞑想のことは、以前から友人のDJ、写真家、パーマカルチャー仲間や『瞑想とギフトエコノミー』を書いた大学教授などから聞いていて、去年発売した本『アーバンパーマカルチャーガイド』でも取り上げてたし、いつか行ってみたいとは思っていた。

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とはいえ、最低でも10日間(前後を挟むと実質12日)。会社員にとってはなかなか取りづらいし(実際、今回参加した人にも前の仕事を辞めて来た人も多かった)、サイトを見てみると建物はどこかサティアンを彷彿とさせる…「大丈夫か…?」と若干ビビリつつ、友人に「どんなところで寝るの?」「食事はどんなもの?まずくないの??』などリサーチして、思いきって申し込みをした。

事務局から届いたメールで「事前に熟読」とあったので、ウェブサイトで予習すると、ヴィパッサナーとは「物事をありのままに見る」という意味を持つインドで最も古い瞑想法のひとつであり、ブッダが悟りを開いた瞑想法であり、ブッダの教えた「生きる技」「自己観察による自己変革の方法」「心のトレーニング」とある。指導者のゴエンカ氏は、国連平和サミットで演説したり、世界中の瞑想センターで指導して、インド大統領からパドマ賞を授与された方とのこと。

10日間はお酒もタバコも携帯もネットもメモさえナシ。
しかも、誰とも口を聞くことも目を合わせることもできないという。

はたして20年以上毎日タバコもお酒も飲み続けてきた僕が耐えられるのだろうか?途中で耐えきれずに帰ってくるかも…とも思いながら電車で千葉に向かった。駅に着くと、バス停にはすでにそれらしき集団が並んでいる。バスに揺られ、何の変哲もない田舎町を20分ほど。バス停に迎えてきてくれていたバンに分乗して会場に到着!

 

五戒と「聖なる沈黙」

まずは、受付でスマホなどの電子機器、財布、タバコやメモ帳もすべて袋に入れて預け、五戒(殺さない、盗まない、性行為を行わない、嘘をつかない、酒・麻薬類を摂らない)を守って最終日まで過すことを誓わされる。

そして、夜の瞑想以降は最終日の10日目の朝まで「聖なる沈黙」。誰とも口を聞かない、目配せやジェスチャーなども含め一切コミュニケーションをとってはいけない・・・

 

瞑想センターはこんな場所

全体像はこんな感じ。こうした瞑想センターが世界で180カ所もあるそうで、日本では千葉と京都の2カ所ある。これがすべて賛同者による寄付だけで作られ、ボランティアによって運営されているというのがすごい。今回の参加費も各自のドネーション

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男女のスペースは完全分離されていて、真ん中の道から反対側へは行ってはいけない。瞑想スペースでは一緒になるが、しゃべるのはもちろん、目を合わせるのもダメ。小学校の教室のように完全プラトニック。

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瞑想スペース。食事の時間以外の大半をここで瞑想してすごす。写真は最終日の清掃中のところ。f:id:camelkondo:20160413163625p:plainシャワーとトイレスペース。冬のシャワーは寒そうだけど…屋根が透明なので明るくて気持ちいい。

f:id:camelkondo:20160413163212p:plain 宿泊棟にはベッドがずらりと並ぶ久々のドミトリーにバックパッカー時代を思い出す。

 

朝4時起床。食事する以外はひたすら瞑想、瞑想。

毎朝4時、「カーン!カーン!」と遠くで打ち鳴らされる鐘の音で目が覚める。いつのまにか体が慣れてきて、起きるのはそれほど辛くない。

今回の参加者は、男女それぞれ30人弱+ボランティアの奉仕者が男女10名あまり。総勢70人ほどが(外国人が10名ほど)日々、瞑想スペースに集まって瞑想する。

下が毎日の時間割。朝4時に起床。4時半から夜9時半の消灯まで、食事時間以外の予定はすべて瞑想、瞑想、瞑想。座り方は、坐禅などとは違って、あぐらなど楽な体勢で座ればいいということで、各自会場にあるクッションをいくつも足に挟んだりして座っている。一度座ったら動かないこと。目を開けないことと言いつつ、ついつい途中で目を開けて時計をチェックしてしまう日々。

この瞑想の目的は、心と身体の深いレベルまでたどっていくことで心の汚濁を取り除き、愛と慈悲に満ちた「平静な心」を養うこと。このコースが癒しでもバカンスでもなく、文字通りの「修行」であることを改めて思わされる…。

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瞑想スペースの入口に貼られた時間割。
 

食事は食べ放題。思った以上に美味しい!

「瞑想に行ってきた」というと何人かに「断食してたの?」と勘違いされたけど、コース中は朝/昼/晩、それなりに美味しい菜食がブッフェ形式で食べ放題(あんまり食べ過ぎると眠くなって集中できないので注意が必要)。なにしろ、お酒もタバコもおしゃべりもナイなかで唯一の「楽しみ」は食事。毎日瞑想しながら食事を心待ちにしていた。

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たとえばのメニューはこんな感じ。

朝食

玄米、白米、おかゆ
納豆、刻みネギ、梅干し、味噌、塩
具沢山のみそ汁
トーストといちごジャム、胡麻ペースト、マーマレード
フルーツ(リンゴ半分、オレンジなど)
紅茶、コーヒー、はちみつ、ショウガ、砂糖など

昼食

玄米、白米、梅干し、味噌、
インド風カレー
サラダ
紅茶、コーヒー、はちみつ、ショウガ、砂糖など

夕方/軽食

ポップコーン
フルーツ(バナナ、キウイ、オレンジなど)
紅茶、コーヒー、はちみつ、ショウガ、砂糖など

個人的には、お酒が飲めないぶん体が糖分を求めるのか、朝食で発見した(ピーナッツバター&ジャムの黄金の組み合わせに匹敵する)イチゴジャム&胡麻ペーストにはまって欠かさず食べ続けていた。

 

初めの3日はひたすら呼吸法

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(事前の不勉強で)瞑想を始めてびっくりしたのが、指導するのがゴエンカ氏ではなく(彼は故人だった)、彼の吹き込んだ録音で行うということ。なので、グループ瞑想の時間になるとゴエンカ氏の指名による外国人アシスタント指導者が来てCDを再生し、バイリンガル音声に従ってみんなで瞑想する。前に座る無言のリーダーの前でみんなで瞑想するという状況に強烈な違和感を感じつつ、徐々に慣れていった。

初めの3日間は、ひたすら呼吸法の修行。初日は鼻から出る息と吸う息に意識を集中すること。2日目は「唇の上から鼻の穴の入口付近までの三角形」を意識して、入ってくる息と出ていく息に集中するように、3日目はその三角形をさらに小さくする言われる。過去や未来に囚われるのではなく、常に「いま、ここ」に自分の意識を取り戻すためのトレーニング。ここまでが「アーナパーナ瞑想」、4日目からの「ヴィパッサナー瞑想」本番に入るための準備段階らしい。

とはいえ、あまりの単純作業の3日間。集中力もそうは続かない。足も痛くなってくるので、何度も足を組み替え、薄目を開けて周りを見ると、みんな落ち着いて座っている…

 

表れては消える煩悩と「脳内ダイブ」

瞑想はワンセットが1時間〜1時間半くらい。間に食事や休憩を挟んでから、また瞑想、また瞑想…。あまりの退屈さに呼吸法に飽きると、脳内には様々な煩悩が現れては消えていく。

こんなに退屈を持て余したのはいつ以来だろう…高校の終わりの日光での合宿免許以来か…など思いつつ、鼻のそばの「小さな三角地帯」に意識を集中させようとする。。

少し慣れてくると面白かったのが、自分の意識をカーソルのように脳内に3次元ダイブできるようになってきたこと。なので、呼吸に意識を集中させることに飽きると、脳内の任意の記憶や想像へダイブしては、そこに現れる様々な忘れてた情景に浸っていた。

初めは映画『ブロークンフラワーズ』のビル・マーレーのように過去につきあった彼女を久々に一人一人思い出しては、記憶のなかのデートコースを巡ってみたり(笑)、進行中・妄想中の様々なプロジェクトを一つ一つ脳内ブレストしてまとめていったり…なにしろ時間はたっぷりある。誰とも話さない、誰にも話しかけられないという状況はこうも豊暁なのかと驚きつつ、「ダメだ、ダメだ!呼吸法の修行に戻らなきゃ!」と繰り返し、毎朝瞑想ルーム入口の「DAY○」という表示を見ては「あと○日…」と指折り数えていた。

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3日目、4日目の夜中には突如、大量のアイデアが頭に降ってきて、興奮して眠れなくなって大寝坊。このまま大量のイメージを受信してたら躁鬱病になるんじゃないか…?と先生に質問に行くと、昼間に意識を「三角形エリア」に閉じ込めていた反動で大量の夢を見るなど僕のような状態になる人は多いらしく「少し強く呼吸を意識しなさい」とのアドバイス。

ちなみに、最終日に参加してた他の仲間に聞いてみると、やはり、本職のお坊さん以外の多くは常に裸体が頭の中に浮かんできたり、ゴルフ好きの60代の方は自分がかつて周ったゴルフコースをすべて巡っていたとか。

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次のステップは、体の感覚を隅々まで見つめること

4日目からはいよいよヴィパッサナー瞑想。3日間の呼吸法の修行(アーナパーナ瞑想)で自在に動かせるようになってきた意識を、今度は「頭のてっぺんにもっていき、そこから体を隅々まで下ろし、爪先まで移動していく」ように指導される。

ずっと鼻のあたりに集中させていた意識をいきなり「頭のてっぺんに」と言われて「ええっ!?」と思ったけど、やってみるとこれも意外とできるようになる。

夜は毎日2時間、テープによるゴエンカ氏の講話で各日ごとの修行の意味を解説してもらう。毎回、様々なたとえ話があって、とてもわかりやすく面白いのだが、睡魔との闘い。この講話もすべて録音されたゴエンカ氏の英語とパーリ語を通訳が日本語で伝えるが、そのなかに「アニッチャー」というつぶやきがあって、その気の抜けた調子もあって妙に印象に残った。

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ある晩の講話。「朝、顔を洗った川と夜に水浴びした川は同じ川ではない」

アニッチャーとは、仏教の中心概念である「無情」の意。川の流れのようにすべてに始まりがあり、終わりがある。すべては移り変わるという自然の法。それを自分の体で直接「体験」しようというのがこの瞑想なのだ。なので、体の隅々まで意識をもっていこうとすると、ついMRIやスキャナーなどをイメージしてしまうのだけど、なるべく「イメージ」せず、体に感じる事実を直接「体験」するように言われる。

文字等の配布物も一切なく、ひたすら自分の体での「実体験」を重視するこの瞑想。だから、このレポートを読んでわかった気になったとしても、あくまで別物なのだ。

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ある晩のSmall Bodhi Tree: Swimologyの講話。海洋学や物理学などあらゆる学問を修めた大学教授が、無学な船乗りに「あなたは人生を無駄にしている」と話し続けるが、ある日、船が転覆する。今度は船乗りが教授に「あなたは水泳学を知っているか?」と聞くが、教授は実際に泳ぐことができなかった…という「経験」の大切さについての話。

 

「執着」と「軽蔑」という反応を、平静な心で見つめる

5日目、6日目、7日目。引き続き、頭のてっぺんから足の爪先まで、ひたすら見つめる瞑想を続けていく。日々、観察する速度を上げたり、範囲を広げたり、逆に細かい場所に留まらせたりと、徐々にその技法を高度に、深めながら。

瞑想しながら体の隅々まで見つめていくと、ところによって「荒削りな感覚があるところ」や凝った場所などがあるのだけど、その時も嫌だとか価値判断をせず、ただ観察するように言われる。逆に、意識が体をすーっと気持ちよく通っていく気持ち良さを感じた時も、それが続いてほしいと願わず、ただ観察するようにと。

人間のすべての意識は感覚器官によって知覚されたことへの価値判断から生まれ、何かへの「執着」や「軽蔑」というサンカーラ(心の反応)よって、すべての苦しみが生まれるのだという。そんなパブロフの犬のような感覚と意識のメカニズムを観察し、体験することで、根本からその原因を取り除こうとする。

一切の価値判断をせず、ただ体の隅々まで「見つめる」訓練をすることで、自分の体というコントロールできない「自然」と「無情」を体感し、平静な心を養っていくのだ。

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これが今回の瞑想の中心部分なので講話でも何度も繰り返されたけど、一つ引っかかったのが「執着」って必ずしもいけないものなのか?ということ。例えば何かを作り上げたり、完成度を上げるには執着心こそが大事なんじゃないか。やりたいことや、それへの執着が次々に生まれてくるのはワクワクするし、それはいけないことなのか?

ランチ後と夜にだけ許されている質問時間にそんな疑問をぶつけてみると、要は「バランス」だとのこと。執着すること自体は悪くないけど、それによって「心の平静」を失うのがよくないとのこと…そうかもしれない。

8日目、9日目には何度か自分の体のなかをすーっと意識が動いて、一気に、一瞬で把握できた気がしたり、体のなかで明滅する個々の細胞を宇宙のように感じる体験もできた気がする。そう、イームズの「パワーズ・オブ・テン」にもあった体のなかのミクロの小宇宙を。

www.youtube.com

 有名なイームズの「パワーズ・オブ・テン」。宇宙からのカメラが人体に入り、体内のミクロ宇宙に突入していくのをワンカットで見せる映像。

 

本当に必要な「楽しみ」と「幸せ」って何だろう?
「都会の果実は、人間の表現だ」

そんな(時折脳内ダイブしつつも)禁欲的な日々で時折考えていたのは、ここでの生活にはない本当に必要な「楽しみ」や「幸せ」って何だろう?ということ。

タバコやお酒がないのは意外に苦にならなかったけど、終わりが近づくにつれて頭をめぐっていたのは、瞑想から帰ったら「近所の友人の蕎麦屋に寄ってヘシコをつまみに日本酒を飲みたい!」「いや、やはり寿司と日本酒か。モツ焼きも捨てがたい」「友人が丁寧に育てた柿豚もやっぱりたまには食べたい!」など様々な煩悩(笑)。このミニマルな生活から戻ったら、何をやめ、何を取り戻していこうかと考え始めていた。

また、想像を排して、ひたすら「自然の法」の体験を重視した生活だったからこそ、逆に、人間のクリエイティビティーやアートの役割について考えさせられた。自然の法に身を任せ、豊かな自然を味わって生きるだけで、人は、僕は幸せになれるんだろうか? なれる人も多いかもしれない。でも、僕自身はやっぱりそれだけでは少し退屈なように思えた。

すでにそこにある世界をただ味わうだけでなく、世界の豊かさに、あるいはその残酷さに、様々な角度から光を当てて気づかせてくれる優れた表現や考え方に触れることも、やっぱり僕にとっては大切だし、幸せにつながることなんだと改めて思った。

そして、瞑想を通じて自分の体を「自然」として体験しつつ思ったのは「都会の果実は人間の表現だ」ということ。自然からの贈り物を使って丁寧に作られた蕎麦も、日本酒も、絶品の柿豚も、心に響くアートも、音楽も、文学も、映画も…すべて都会の「自然」としての人間による「表現」だし、人間が生きている証としての「文化」だ。僕はやっぱり自然の豊かさだけでなく、そこに生きる多様な人間の表現や文化の豊かさを存分に味わいたいし、それを少しでもより豊かにすることに貢献していきたいと思う。

 

「個人」を超えてー「自分」と「みんな」のバランス

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一方で、近代以降あまりにも「個人」が肥大化して、誰もが目先の「楽しさ」「快適さ」「効率性」を求めたなかで、人間が内包されるはずの環境さえも壊し始めてしまっているのも事実。これも要は「バランス」なんだと思う。

表現やアートにしても、エゴイスティックな「自己表現」のイメージが強いけど、それは「個人」という概念が確立した近代以降、たった百年あまりのこと。その前はずっと、宗教画にしても、ダビンチにしても「個人のための個人表現」というより「みんなのための個人表現」だったのだと思う。個人や表現の「自由」も大切だけど、みんなのための「倫理」も大切。戦後、それまでの反動で「個人」を重視しすぎ、宗教と道徳をあまりにも軽視し、エコノミックアニマル化した結果、バランスが崩れてしまったのが現代なんだと思う。

f:id:camelkondo:20160417110252j:plainレオナルド・ダビンチ「最後の晩餐」

たとえば今、地球の食糧生産力はすべての人を食べさせられるだけの量があるけど、すべての強欲な人を食べさせることはできないという。世界の一部の人の「強欲」が世界の貧富の差を再生産し続けている。

僕ら先進国の人が、ちょっとした「楽しみ」「娯楽」のために回転寿司で安い寿司を食べることが魚資源の枯渇につながり、(餌として大量の穀物を必要とする)牛肉を貪ることが食糧問題につながり、便利だからとつい使うコンビニやスーパーという仕組が日々、大量の廃棄物を生み出し、不必要なものまで輸入することが環境悪化につながっていく・・・(以下の映画が、こういうことをとってもわかりやすく教えてくれる。知らない方は是非見ることを薦めます)

僕自身は少なくともここから戻ってから、顔の見える人の表現や美味しいお酒やつまみはありがたく頂きつつ、地球の食糧問題や環境問題、貧富の問題にはこれ以上加担しない生活をしていこうと改めて思った。 

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「便利」「効率性」に支配された現代の食事情とそれが世界にもたらす問題、あるべき食文化のあり方について考えさせてくれる良質なドキュメンタリー映画。 

 

10日目「聖なる沈黙」解禁!

そんなこんなで最後まで「あと○日…」と数えながら瞑想し、ようやく辿り着いた最終日。4時半に起床して朝食と瞑想を終えた9時半、とうとう聖なる沈黙が解禁!
それまで一緒に過してきた仲間たちと、10日ぶりに話ができることになった。堰を切ったように各所で集まっては「どうだった?」と話し始める人々。

「おまえ、毎回果物を1人で食べ過ぎだろ」「便所流せよ」とか、妄想でゴルフコースを回っていた話やら、「もう限界!」と帰りに風俗に直行するという若者がいたり… 

久々にいろんな人と一気にしゃべったせいか、昼過ぎには声が出なくなっていることに気づいたり。人としゃべれる歓び、何かをシェアできるって、こんなに楽しいものなんだということを改めて実感。

そして、今回のプログラムがすべてボランティアの奉仕者によって食事もつくられ、運営もされ、施設自体もつくられているのだということに、改めて驚きと感謝、希望を感じつつ、改めて感謝したい。自分だけのためでなく「次の誰かへ」という思いが集まった結果がここに「現実」としてあるのだ。

 

というわけで、人生初めてのヴィパッサナー瞑想体験。ハードではあったけど、心も体もすっきりして、結果としてはやりたいことのリストが盛り沢山。帰ってから急いでメモしつつ、それから一週間たった今も毎朝5時頃起きて1時間、瞑想中。

先日、大の苦手の歯医者で虫歯治療したときも、呼吸法で自分を落ち着かせたり、意識を歯からなるべく遠い爪先の方へもっていってやり過ごしたりと、改めて今回学んだことが「生きるための技術ーArt of Living」なんだなと実感。

たまたまだけど、このブログの副題も「Art of Living」。今後も実践しつつ、深めていく所存です。長くなりましたが、最後まで読んでくれた方、ありがとうございました!興味ある方は是非,機会をつくって「実体験」を!

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最終日の帰り際、10日間すごした参加者の仲間たちともお別れ。面白い方々に出会えたのも貴重でした!これからもよろしく! 

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【KYODO HOUSE 映画上映会】 

5月14日13時〜 映画「EDIBLE CITYー都市を耕せ」上映会&トーク会をやりますー。興味ある方は是非! 

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