KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

広告の転換期?

今更ではありますが、今年のカンヌ広告祭とそこに僕が感じる広告界の転換期?について書いておこうと思います。

広告界の人はもう見たと思いますが、今年のフィルム部門のグランプリはアメリカのDoveのCMでした。初めて見たとき、正直やられたと思いました。YouTubeで流されてあっという間に話題を呼び、パロディー版までつくられた、というところは去年ゴールドだったBRAVIAのCMといい、ナイキロナウジーニョのCMといい、ここ最近のヒットCMでは良くある形。(先のBRAVIAはサンフランシスコの街に「実際に」何十万個ものスーパーボールを放つという、街でのアートインスタレーションのような制御された偶然性のもつリアルを広告に持ち込んだところが新鮮で、広告に新しい風を吹き込んだとは思います。
↓2006年カンヌ・ゴールド受賞 SONYBRAVIA

↓2007年カンヌ・グランプリ受賞 Dove「Evolution」

このDoveのCMは、ふつうの女性があらゆる修正テクニックで美しくつくられていくさまを実証風にコマ送りで見せて行きます。無数の修正によってものすごく美人になった女性が最後にそのまま看板になる。そこへ「ほらね、見る側の美の認識はこれだけ歪められてるんですよ」と問題提起するメッセージが出てきて、「Doveの女性のためのビューティーワークショップ」に参加を誘うという構成。映像のつなぎとか、演出面でもう少し面白くできたはずという声も聞くけど、このCMの肝はメッセージの実証にあるので、その辺は好みの問題。それよりも、僕はこのCMの批評性と実際にそのための活動までしているところにやられた、と思いました。

女性のビューティー広告における「修正」は、これまで当たり前のように行われてきていて、かつ、誰もが薄々知ってたこと。だけど、みんな「広告は元々、そういうもの(嘘)だから…」と黙認してきた。皮肉に言えば、嘘が入ってるからこそ安心して「広告」として見ていられた。それに対して、当の広告側からタブーを破り始めた。

広告が、建前やウソではなく、ほんとうのことを言い始めた。
単純に企業の商品について語るのではなく、ただタブーを破ったからという話題性でもなくて、消費者が心の底で思っている問題について、わりと単純な表現方法で正直に語り始めたということ。そう感じたから見る人の心に刺さり、広告なのかどうかは関係なく単純に面白いと思って話題になったのだと思います。ほんとうのことを言わないと届かなくなってきた。

これには、少し前から映画界でマイケル・ムーアが痛快にアメリカを皮肉った「華氏9.11」や、ガス・ヴァンサントが銃社会の問題を扱った「エレファント」モーガン・スパーロックがファーストフードがいかに不健康かを実際に実験した「スーパーサイズミー」などのドキュメンタリー映画の流行の影響があると思う。みんなが社会や世界の問題に対して、うまくユーモアを交えて語り始めた。いわば、こういう内容を許容する下地ができてきた。

スーパーサイズ・ミー 通常版 [DVD]

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ちなみに、僕は行けなかったけど今年のカンヌ広告祭にはアル・ゴア(元米副大統領)さんも来ていて、広告界の人にも社会問題に対して協力を呼びかけたらしい。もちろん、直接その影響ではないと思いますが、ともかくも、このダブのCMが他に主な対抗馬もなしにグランプリに選ばれた。

昨日、会社の同僚から送られてきたメルマガにも、今年のアムネスティをはじめカンヌの受賞作品などの中から人権、暴力、貧困など社会的な問題に対する世界の様々な公共広告がありました。どれも見ただけですぐにメッセージ内容がわかる、良く言えばダイレクト、悪く言えばベタなものが多いですが、どれもアイデアがあって良く出来ていると思います。特にバス停を使ったポスターは相当よくできていて、もし実際にこれを見たらドキッとするだろうなと。

↑T'S NOT HAPPENING HERE, BUT IT'S HAPPENING NOW (Switzerland) 
バス停のそばに貼られた一見、ほんとにいるかのように見えるポスター。
日本の公共広告も最近はたまにいいものも出てきてるけど、たいていオサムイ。そもそもアイデアもユーモアもないのが多いし、一応、タテマエ的にメッセージを伝えているだけで偽善にしか聞こえないから響かない。もちろん、文化の違いもあるし、社会問題などの切実度・身近度も違うから、単純に海外と同じようにやればいいというわけではないとは思いますが…。

実際、僕がNYにいた頃は、まわりにいた仲間たちがふつうに環境問題を語ったり、汚いことをしている企業の商品を買わなかったりと社会的な意識をもっていた。「すべては政治的なんだよ」と僕のルームメートが言ったのも思い出します。初めは意味がわからなかったんだけど、たとえば、僕らがモノを買ったり、人と話したり、食べたり、仕事したり、遊んだり…個人が行うすべてのことは他人、社会に影響を及ぼしているという意味で「政治的」だということ。だから自分のことの延長として社会についても敏感にならざるを得ない。この辺は、雑誌ソトコトがずっと提唱している「Egoから始まるLOHAS」に通ずると思います。でも例えば今、仕事仲間にLOHASの話をしても、「おしゃれだね」とか、どこか身近でないもの、偽善的なものに捉えられてしまう感じがあって難しい…。

↑WRITE FOR FREEDOM (Malaysia)
書くことができる自由を感じるための鉛筆。これを見て、先日ADの佐野研二郎の個展にあったとても好きな作品、「あいしているという言葉がうまく書ける鉛筆」と同じように鉛筆に彫り込んであったのを思い出しました。

少なくとも今、世界でいろんな分野の表現者たちが、様々な社会問題をリアルに感じて動き始めているんだと思う。そして広告界の制作者たちもそれに続こうとしている。今年のカンヌのアウトドアー部門でのグランプリを受賞した実際に発電できる屋外広告も、まさにそういうところから生まれていると思う。

一時、ベネトンがこうした社会的なテーマを扱った広告で話題を呼んだけど、あの時はまだ広告界の大方の反応は「報道を広告に持ち込んだ反則技、話題狙いの卑怯さ」というように冷ややかだったように思う。でも、それも今、変わってきていると思う。日本でも90年代末に作家たちが社会的な事件に続々と反応したように見えた時があった。田中康夫阪神大震災後にボランティアに参加した後に長野県知事になったり、村上春樹がオーム事件後に被害者へのインタビュー本「アンダーグラウンド」を出版、その後「神の子どもたちはみな踊る」という小説に結実させたり、柄谷行人がNAMを結成したり…

アンダーグラウンド (講談社文庫)

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神の子どもたちはみな踊る

神の子どもたちはみな踊る

そんなソーシャル・グッドに向かう流れが、もっと身近に大きな規模で起こってきているように思う。年初に参加したイノベーターズ・プロジェクトでも、アメリカでその名のとおり「GOOD」という雑誌を創刊したという同年代くらいの編集長がいた。現代アート界でも、前回のベネチアビエンナーレすでに政治的な内容の作品の割合が多かった(それはそれで夢がなくてアートとしてはつまらなかったんだけど)…。

資本主義社会(とアメリカの暴走)が、世界中にさまざまな社会問題や環境問題を生み出している中、ソーシャルな意識をもったクリエイターや起業家たちが、「ウェブ2.0」というインフラによってどんどん広がっているんだと思う。資本主義社会から、その先にあるボランタリーな社会へ。

しかも、これまでお金持ちの人だけが出来たように無償でやるのではなく、それを続けるために利益を生み出しながらビジネスとしてやっているのが多い(貧困層のためのマイクロクレジットノーベル賞を受賞したユヌス氏しかり…)。それにつれて一般の企業も、利益追求と社会貢献の両立という古くて新しいテーマがこれから重要になってきている。(パタゴニアしかり、トヨタしかり…)そんな世の中と人の変化に応じて(やっと?)広告も変わり始めた。Doveの受賞はその兆しなのだと思う。

もちろん、これからも先のBRAVIAのように、見る人の心をわくわくさせるエンターテイメント広告(その商品・企業も、もちろんソーシャル・グッドでないといけない)もずっとあり続けるだろうし、そうでなければつまらないと思う。

広告で心を豊かにするか、商品やその広告を通じて社会貢献をするお手伝いをするか。
個人的には、広告に携わっている以上、その両方に関わっていたいと思います。(うちの会社はいいことやってるぞー!という方、あるいは公共広告など、僕に発注してくれませんか?)。

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