KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

【メディア掲載】OPEN HOUSE magazine(スペイン)に掲載

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スペイン発のインディペンデントマガジン「OPEN HOUSE」にKYODO HOUSEが掲載されました。主に、家のつくりというよりも、「The Art of Living」という言葉に込めたKYODO HOUSEでの暮らし実験の想いについて、大学教授でもあるニックさんにじっくりと話を聞いて書いていただきました。まだまだ少しずつですが、都会の暮らしのなかでできることを、いろいろ実験していきたいと思っています。

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KYODO HOUSEーTHE ART OF LIVING

東京郊外に建つ名和晃平が手がけたこの住宅は、
アートと環境の家、そして日本の地域コミュニティへの回帰である。

きれいだけど古びていて、インターナショナルなようで間違いなく日本的。そんな美しい外観を持つKyodo Houseに気づかず通りすぎるはずはない。昼間、もしくは晴れた夜空の日にでも到着していれば、近所の人を怖がらせることもなく、すぐに見つけることが出来ただろうに、よりによって到着したのはひどい雨の晩。空港に始まり、もつれあう触手のような東京の地下鉄、名もなき路地、東京の南西に位置する世田谷にたどり着くまでは最初から大変だった。思いがけない夜中の“ガイジン”の出現。僕のたどたどしい日本語が生んだのは、警戒心と敵意だった。ここじゃない。隣。ただ、彼らは恐れながらも、方向は示してくれたのだった。

近藤ヒデノリ氏と妻のあゆみさん、そして娘のそらちゃんは、自宅をその時々のAirbnbのゲストとシェアしており、その時に滞在していたのは僕の以前のパートナー、カルラ(Openhouse Issue No.6: Varda residencyに登場)だった。美味しい緑茶と僕の香港土産のゴジベリーをつまみながら、ヒデとKyodo Houseについて話した。名和晃平が手がけたこの住宅は、アートと環境の家、そして日本の地域コミュニティへの回帰である。

銅精錬所の遺構を活用した、犬島精錬所美術館にインスパイアされたKyodo Houseを手がけたのは、京都で多様な表現を展開するSANDWICHで活動する、アーティスト・名和晃平と建築家・古代裕一、ローエナジーハウス・プロジェクトの山田英幸。彼らの、散在しつつも同質の精神、そのコラボレーション作品といえる。「アート、環境、多様性、開放、未完成」という、ヒデとあゆみさんが提示した謎めいたキーワードと、名和の幾何学的な絵画「Direction」を基に、建物は2015年に完成した。

 美しさで最も惹き付けられるのは、家の外観だ。アシンメトリーに積まれた、アンバランスともいえる箱、名和による傾斜した木のダークなファサード。製材所から集められた様々な樹種の古材の圧倒的な木の存在感が、環境への意識を強く感じさせる。“カワイイ”敷地には、小さな家庭菜園と垂直な庭(まさに都会にしかありえないもの)。内装は白い壁とパイン材で、明るく開放的。リビングの吹き抜けには、高くそびえる美しい本棚。そこに並ぶ数々の本は、本でしか醸し出せない、控えめな暖かさを生み出している。

 サステナビリティは、この家のとても重要な特徴である。家の内部構造は、温められた暖気を自然に上昇させ、循環パイプを通して地下から吸い上げられる冷たい空気と入れ替える。この自然のエアコンによって、日本の過酷な蒸し暑さも快適に過ごせるのだ。また、家の主要部分はパッシブソーラーデザインに従い南向きに配置されており、冬は太陽の熱を最大限に取り入れる。外壁に使われている古材は、日本が環境との不安定な関係に直面していることを思い起こさせる。特に、伝統的に神聖とされている山や森との関わりにおいて。屋根は雨水を溜め、ゴミはパーマカルチャーの考えに習いコンポストへ。このようなことは地方や、小規模都市で行われることが多いが、東京都心ではほぼ前代未聞といえるだろう。

Kyodo Houseのモットーは、「the art of living」。アートの世界に長く携わってきたヒデは言う。「アートのためのアート、アート業界のためのアートにはもううんざり。もっと興味があるのは、生活をより良くするための発想やテクニックとしてのアート。ヨーゼフ・ボイスの「社会彫刻」の概念に共感して、自分の生活を「生活彫刻」にしたかったんだ」住宅はこの点において重要な一面を担い、だからこそ、そこに住む家族の延長線にあるものとなる。これは多くの家族、そして彼らが住む家にあてはまるだろうが、ここまで意図的にやったのは稀だろう。

Kyodo Houseは、自宅兼Art of livingのテーマに基づいたコミュニティスペースとしてデザインされており、エキシビジョン、ダンス、パフォーマンスアート、ワークショップ(味噌作り、パーマカルチャー、アーバンデザイン、エディブル・ガーデン他)、レクチャー、上映会、そしてもちろん、パーティー、など様々なイベントを行うことで地域に開放されている。(これはプライバシーを重んじる、たいていの日本人家庭ではありえないことである。)また、アーティストが滞在したり、国内外からのAirbnbのゲストにも部屋を貸し出している。

はたしてこの家の意図するものは、日本の伝統的価値観を補うものなのか、それともそれと衝突するものなのか。ヒデはこれについて、「Kyodo Houseは実際、それらの価値観を再び呼び覚ます、または新たに想像するものである」と語る。日本の田舎の伝統的な家屋には、近所の人が集まりふれあいの場となる、縁側と土間という共有スペースがあり、日本各地の寺や茶室には、芸術と建築を融合させるための、歴史を通した献身的な試みが見られる。しかしながら、日本が戦後に向かったのは経済発展、工業化、都市化への道。経済発展(日本の奇跡)と共にもたらされたのは、人口過剰ゆえの孤立、孤独感、憂鬱感、そして型通りの生き方。Kyodo Houseは、ハイパーモダンな東京の文脈において、日本の伝統的価値観へのアート的回帰を触媒する試みである。

しかしながら、少なくとも僕の心の中では、このコミュニティの価値はまだ実現途中であり、完成されてはいない。物理的にではなく、哲学的にである。まだコミュニティハウスと感じることが出来ないのだ。それよりも、コミュニティの特定の要素を、選ばれた場面に呼び寄せているだけに思える。ある意味、この家の現実は、まだ彼らが先導する政治的、倫理的基盤に追いついていない。おそらく、その主たる理由は日本そのものではないかと思う。日本は1860年まで200年以上、国境を閉ざしていた国である。誰もが知るほど近未来的でありながら、とても古風で、堅苦しくもある。Kyodo Houseが繰り返し提唱する、地域と環境、コミュニティの価値、そしてArt of livingは、もはや新しいアイデアではない。とはいえ、多くの面で賞賛に値するほど、彼らはいわゆる日本的なるものから外れているのだ。

したがって、Kyodo Houseがソーシャルプロジェクトとして直面する数々のハードルは文脈的で、それらを乗り越えるための推進力が彼らを個性的にしていく。豊かさが国とその人々にもたらした影響について考えるようになったばかりのこの国において、新たな可能性を見出そうとする試み。東京において、それは先駆的な考え方と言える。福島の恐ろしさは今も続いている。一刻も早い変化が求められるのではないだろうか。

Kyodo Houseは、プライベートとパブリック、世俗的なものと神聖なもの、機能性と美しさ、これらの間のバランスをとろうと試みている。それはとても理想的だが、捉えどころがない。美しい家、そして美しいアイデア、それがKyodo Houseである。

文章:ニック・パーキン Nik Parkin 
写真:清水 謙 shimizuken.com
訳:佐藤 夏美translated by Natsumi Sato