KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

 作品と、作品を語る言葉。

昨日は銀座で冨井大裕の個展のレセプションパーティへ。TSでインタビューして以来すでに半年で2回目の展示、もう一カ所でも同時開催中と精力的。個人的には、今回はこの壁の作品の他、色鉛筆とアクリル版を積み上げてつくったモニュメントのような作品が美しくて好きだった。

美術評論家の鷹見さんとのトークにお客さんも会場いっぱい100人近く。蒸し暑い中、初期作品からこの会場での最新作について語るのを聞くが、彼は身の回りにある素材と対話しながら感覚で彫刻につくりあげていくので、「なんとなく」とか「てきとうに」とか「たまたま…」と質問者泣かせの連続。仕方がない。笑。

たとえば僕も、スポンジを積み上げた壁をつくった作品を見て反射的にP・オースターの「偶然の音楽」に出てきた広大な庭に斜めに走る壁(無意味さと徒労の象徴物)を思い浮かべたけど、そんなものは見ている後から貼付けた意味に過ぎなくて、あくまでもカラフルなスポンジを積み上げたものでしかない。それ以上でも以下でもなく。


冨井大裕、ASK? art space kimuraでの展示風景より

TSでインタビューしていて思うのは、表現者には1−作品について語る言葉よりも作品そのものの方が面白い人、2−作品も面白くて語る言葉も面白い人、3−語る言葉は面白いけど作品はあまり面白くない人の3種類がいるということで、冨井さんの場合は1だと思う(失礼!)。ちなみに3の人はTSでは取り上げていない。海外だと作品を発表する際に「ステートメント」というのが求められることが多いので、やたらと自分の作品についての言葉が豊富で面白いけど作品は…という3のパターンの人が多いけど、日本だと「武士は黙って…」の伝統(笑)のせいか、1が多い気がする。それがいいとか悪いってわけじゃないけど。

終わった後は、青山|目黒の青山さん、田中功起くんらたちとみんなで2次会へ。僕と同様、今年ミュンスタードクメンタに行ってきた田中君と、ドクメンタがなぜつまらなかったのかについて話す。キュレーターが普通の展覧会の常識を破ろうとして、意味ではなく色などフォーマルな様式で作品を並べたり、あえて大物を外していわゆる第三世界から作家を多く集めたり、アーティスト名から国名を外したり、カタログも年代順に並べたり…それらがすべて見にくい、わかりにくい、地味…という結果になったようだ。