KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

制御された偶然性

去年、TSで行った展覧会「フラットな世界以降の新しい美術の流れ」でもキーワードのひとつに「偶然性」というのを入れていたり、僕自身の個展「FREE CAMEL」では本物のラクダをギャラリ−に呼んでみたりと、最近、制御された中に生まれる偶然性とか不確定性、そこに生まれるものがずっと気になっている。
TSでもインタビューした田中功起の作品の中に、今回も国立新美術館で展示されている「階段をオレンジが転がり落ちる」ビデオ作品がある。去年、彼にこれを見せてもらったときにまず思い出したのが、去年カンヌ広告祭でゴールドを受賞した、SONY「BRAVIA」のCM(サンフランシスコの街を数十万個のスーパーボールが転がる)だった。本人にもすぐにそれを見せてみたりもしたが、去年TSで行ったミーティングでも話題にしたので知っている人も多いと思う。オレンジが転がるビデオ作品と、スーパーボールが転がるCM。

どちらがパクリだとかそんなことを言いたいのではなくて、そういうのがたまたま別のフィールドで現れているシンクロニシティと、そこに共通するものとして偶然性とか、不確定性が入っているということが興味深い。特にCMではふつう、すべてのカットが計算、コントロール、意味付けされているのに対して、このCMではスーパーボールがどう転がるか、どう跳ねるか、というのはコントロール不能。そこにはどうしても偶然性が入り込まざるを得ない。広告に偶然性が入っているということ――たまたま一回きり起こっていることがそのまま記録されている、それ自体には何の意味もないこと――そこに人は今、美しさを感じ、惹かれるような気がする。

過去に意図して偶然性を作品に取り入れた例としてはジョン・ケージの「チャンス・オペレーションズ」が有名だし、思想家のロラン・バルトも写真に対して、作者の意図を超えてそこに「たまたま」写り込んだものを「プンクトゥム」と呼んで写真の本質的な魅力だと言っている。アートでも、ドリップペインティングのポロックなんかも、ペインティングという制御された行為の中に絵の具が飛び散る偶然性を呼び込んでいたり、60年代には「ハプニング」という活動もあった。

だけど今、どうして再びそういう偶然性に人は(僕は)惹かれるんだろう。

最近では、脳科学者の茂木健一郎さんが「偶有性」ということを言っている。彼によれば「偶有性」とは、ある程度予想される偶然性であるという。完全にランダムなものには人は惹かれない。彼は偶有性が、人とか、生命という本質にそもそも結びついたものだという。例えば、僕がある家庭に生まれるということは、人間が生まれるということはわかっているし、男か女であるだろううことも、いつ頃生まれるだろう、ということも。でも厳密に、いつ、どんな人間に生まれるかということはわからない。

そう言えば、僕の人生とか生活とはほとんどが、そんな偶有性から成っていると思う。すべてがランダムな予測不可能性だったら生きていけないので、僕らも、社会も、ある程度そういうランダムさ、過剰さ、カオスを制御しながら生きている。そんな制御が行き過ぎてしまっていると感じるとき…改めて偶然性とか、予測不可能性とか、偶有性といったものに惹かれるんじゃないだろうか。たとえば、今がそんな時代なのかもしれないと思う。ただ飛び跳ねているオレンジや、スーパーボールの理由のなさに、僕らは自分の存在そのものの偶有性を重ね合わせるんじゃないか。

PS:最新のブルータスの茂木さん特集。横に書かれた注釈がけっこう辛辣でスピード感があって面白い。


BRUTUS (ブルータス) 2007年 2/1号 [雑誌]

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