KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

「無思想」の国で脳の話を読む


無思想の発見
台湾出張前後で読んだ新書2冊。(空港で買おうとすると面白いのがなくて、ついつい新書になる)久しぶりに今流行の「脳」関係。
新書だけにパッと見も似ているが、どちらも同じ脳をテーマに扱っているからか、茂木さんと養老さんは同じようなことを言っているようにも感じた。茂木さんの方は、科学に代表される論理で構成された「世界知」に対して、質を感じるクオリアを大切にしろと言い、片や養老さんは、概念世界に対して感覚世界を対置して、どっちも大切にしきゃならんと言う。
「脳」整理法

面白かったのは「唯脳論」「バカの壁」と続いて、言葉という論理で本を書いてきた養老氏が、「思想なんて」とか、「それって哲学でしょ」とつい言われる日本という哲学不毛の場所に苦労しながら、最終的にはそうした日本的な「無思想」にプラスの側面を見いだしているところ。たしかに、日本は「そんな小難しいこと言うなよ」「でも、現実はさぁ…」っていうように哲学とか思想へのうさん臭さ「それって役に立つの」っていう現実主義。仏教の「不立文字」の源流があるのか、文字で書かれたことや、考えたようなことをタテマエとして斥けようとする。ホンネ主義、あるいは露悪主義。

ただし彼はこんな日本を「無思想」なのではなくて、「無思想という思想」の国なのだと言って苦しみながらも肯定しようとする。普通なら「欧米では、哲学や宗教心ってものがあって…個人てものが確立されてて…」と主張したりして、「それはもういいよ」となるのだが、氏は逆に、西欧的な「個人」とか、大それた「思想・イデオロギー」を持たない日本人の方が、逆にこれからの時代、いいのではないかと言う。思想がない分、外へ出たときは言う言葉を持たないが、キリスト教的価値観のアメリカみたいに「正義だ!」とか言って、相手にとっては逆でしかない戦争を仕掛けたりしないというわけ。


他力
それにちょっと似てることを言ってるな、と思い出したのが、正月に実家の本棚から引っ張りだして読んだ五木寛之の「他力」。彼の著作を読むのなんて、小学生の時にちょっとドキドキした「青春の門」以来で懐かしいが、養老さんとおそらく同じ年ごろの氏?は、親鸞の「他力本願」という考え方にたどり着いたらしい。「他力本願」とか仏教って、僕は今まで、どっちかというと「自力」を信じていた僕は馴染めない考え方だったんだけどなぜか、変に腑に落ちた気がした。それも詳しくは忘れてしまったが、流れに身をまかす日本人的無思想のことだったような気がする。