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KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

アジアのすごい人

ホリエモン事件があってから、ここに書くのもなんだか複雑だけど、
とりあえず面倒なので、まだここに書きます。(ブログの著作権をめぐってや、マックユーザーへのずさんな対応に頭にきてた去年あたりに、やはり移っておくべきだったか…)

最近、たまたま続けてアジアの宗教家と活動家?の本、映画に触れた。
ダライラマ自伝」と「ガンジー」。実はこの二人、僕は恥ずかしながら今まで「チベットのえらい宗教家」「非暴力を唱えてインドを独立に導いたえらい人」くらいの認識しかなかったんだけど、自伝と映画を見てのまずの感想は、とにかくレベルの違うすごい人だと(恥笑)。しかもダライラマは、まだ同時代に生きている人だということに、なんとなく驚く。

ガンジー コレクターズ・エディション

ダライ・ラマ自伝

ダライラマの祖国、チベットへは僕も以前に行ったことがあったので(その時はこういう背景とかは全然知らなかったけれど)チベット人が猛烈に中国人を嫌っていたのは、言葉がほとんど通じてなくてもわかった。そして、中国によるチベットへのアウシュビッツを思わせる民族浄化政策が「昔のこと」ではなく、「つい最近まで」起こっていたことだということ(この本が書かれているのが90年代初頭)に、底知れぬ恐ろしさを感じる。極小国チベットを、飲み込もうとする膨大な人口をもつ中国。去年、おととしと仕事で何度となく行っていただけに複雑な気になる。

宗教というもの自体には,僕はもともとあまり積極的に関心はないんだけど、ダライラマの言葉で印象に残ったのが「宗教ってのは、病気を直す薬みたいなもの。だから病気の種類だけ宗教があっていいんだ」という、ひとつの宗教だけじゃなくて、他の宗教の併存も許す考え方。その辺がキリスト教に代表される西欧的な考え方になくて、仏教をはじめ、アジア的な宗教の懐の深さなんだな、と思ったり。また、この言葉の「薬」の部分を「アート」に読み替えても成立する(その場合は、偽薬とか毒薬になるのかもしれないが)んじゃないかと思ったりもする。そういや、ダミアン・ハーストも偽薬の作品をつくっていたな。

同じようなことはガンジーも言っていて(真理は宗教を越える)、映画の中でも、「非暴力」によって大国イギリスから独立したインドが、今度は、回教徒とヒンズーとの内ゲバ争いで泥沼化する中、ガンジーは、「宗教に関係なく、インドはひとつなんだ」とずっと言い続ける。

それにしても、すごいなと思ったのが、ガンジーの提唱した「非暴力/非服従」というインド独立のためにとった方法・戦略。支配側(当時の大英帝国)の理不尽な暴力にも、決して手を出さないで、甘んじて殴られ、暴行されつづける。ただし、決して服従しない(ここが重要)。あるいは、自分たちの綿生産を守るために、当時インドに多く輸入されていた英国製の衣服を焼くというインド中に広まったパフォーマンス、あるいは、生命にとって大切なものの象徴としての「塩」をつくるために、ガンジーが自ら数百キロの道のりを歩いて塩をつくりに行くというパフォーマンス。それらは、暴力を伴わない、利益のためでもない、純粋に、メッセージを発するためだけのパフォーマンスだ。その精神的な強さ、高潔さは、すごいとしか言い表せない。そして、このやり方は、マイノリティにとって可能な唯一の有効な抵抗の方法なんだなと。きっと今でも使える。

ガンジーのそういう「非戦・不服従」のパフォーマンスは、アート界で言えば、ベトナム戦争時にオノ・ヨーコとレノンが行った「ベッドインパフォーマンス」とか、M・アブラモビッチによる万里の長城の端から端まで恋人同士が歩く,というパフォーマンスとも通ずると思う。これらのパフォーマンスのメッセージは「平和」だったりと、行われた文脈は違うけど、一人の人間が、身体ひとつで生み出す無償のパフォーマンスが発する、純粋なメッセージの強さ。国家の独立を目指すという状況で、それをやりきったガンジーは、ほんとにすごい思想家であり政治家、活動家、パフォーマンスアーティストでもあると思う。