KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

作者の死?

雨。休日。溜まってしまったTSの原稿を書いてる合間に、久しぶりにmixiで知人の日記をサーフィン、美術家の奥村雄樹くんのブログへのコメントのつもりで思ったら、だらだらと長くなったひとり言めいてきたので改めてここに書き直してみる。



小説の自由

奥村くんがとりあげていた保坂和志のちょっと前の新刊「小説の自由」は、僕も彼と同様に「小説」のところを「アート」に読み替えて読んでいて(ところどころ専門的になりすぎて飛ばしよみしていたが)、それを読んで奥村くんが書いている、「作者」と「作品」の関係/作者に作品の意味を求めること/「作者中心主義」的な読解の無用さは、僕が去年からTOKYO SOURCE(TS)をやりつつも、それまで基本的に支持していたバルトやフーコーデリダらフランス現代思想家たちの「作者の死」的な考え方との整合性のとれなさに、実のところ常々考えていたことでもあった。

その音楽の<作者>とは誰か リミックス・産業・著作権
もともと僕が「作者の死」という考え方に興味をもったのは、クラブとかによく出入りしてて「リミックス」とか「カバー」に触れた後に、先のフランス系思想家の本を読んだからなのだが、作者の死による読者の誕生→作品(テキスト)の自由な読解の可能性ということに多いに惹かれつつも(NY時代に英語で読まざる得なくて理解度が少なく、帰ってから日本語で読み直してもなお今イチわからず/ちなみに当時つくった「消されたファッションモデル」という作品もその辺の意図もあった)若干の疑問点が消えずにいたて、ちょっと前にも「作者」という概念を音楽分野で考察している本を読んだりしていた(これはこれで作品に唯一の作者がいた「ディスク文化」の時代と「作者」の概念が拡散する「リミックス文化(たしかそう書いてあったような)」という分け方も明快ではあった)。有限責任会社
零度の文学

それでこの冬に読んだのが加藤典洋の「テクストから遠くはなれて」(この本も「小説」を「アート」と読み替えながら読んでいたりするんだけど)で、この中でバルト、デリダフーコーらの言う「作者の死」の概念の穴と可能性が納得できたような気がしている。


テクストから遠く離れて

僕は今まで、彼らフランス現代思想家の言う大きくはテキスト論的な「作者」と「作品」は完全に独立したもので、作品は作家とは完全に切り離して読解するべきだという考え方に深く共感しつつ、

「とはいえ、作者と作品が全く無関係ではないんじゃない?作者が唯一の意味の源泉ではないけど、じゃあ自伝的な要素のある作品はどうするの?「作者」の別の作品とがつくりだす文脈があってもいいんじゃない?」
とか思っていた。

それに対して加藤氏は作者ではなく「作者の像」という考え方をもってきていて、読む側は作品を読む中で、作者そのものに遡行するのではなく「作者の像」を思い浮かべながら読むのだと。ここでいう「作者の像」とは実在の「作者」とはつながっていない。

僕はインタビューをしながら常に、常にインタビュイーが「本当のこと」を言っているとは思っていなくて、あくまでも彼/彼女が話しているのは「自分がつくりあげたい作者像」であって、いわば、ふたりで架空の作者像をつくりあげているようなものだと思っていた(トークライブでも土屋くんとの話しで、そういうことを話した)。逆にそういう意識がインタビューする側になくて、作者の言ってることが全部本当だと思ったりすると痛い目に遭うだろう。(ちなみに昨日、六本木で話した某超有名写真家も、去年の個展で受けた300件!というインタビューでたまに「完全に嘘を言い通している」と言っていたが、それを見抜けない相手も相手だし、あえてそうする彼のスタンスが作品とも関連して面白い)

そういう意味でTSでやっているのは、あくまでも作品の唯一の意味、答えとしての作者の考えを聴こうとしているのではなく、作品から遡行される「作者の像」をインタビュー/対話を通じて、共謀してつくっていく行為だと。だからTSで書かれている「作者の像」=「作者」ではないし、そこに書かれていることがその作品への唯一の読解ではない。TSに書かれているのは作品を解読する「ひとつの」方法で、読者へ開かれたソースにすぎないのだ。