KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

旅をしつづける人


ASIAN JAPANESE?アジアン・ジャパニーズ〈1〉

なんとなくバタバタとしているこの頃。仕事で久しぶりに上海に1泊2日でCMの修正作業で行ってきた。今回の旅の供は、知人の小林紀晴さんから送られてきた「ASIAN JAPANESE 3」。帯には「ベストセラーシリーズついに完結」とある。

「ASIAN JAPANESE 1・2」を読んだのは僕がまだ就職して間もないころで、しばらくは今までのような長い旅はできないと思っていた僕にとって、当時ちょうど単行本化された沢木耕太郎の「深夜特急」と並んで「仕事なんて辞めて旅に出ようよ」と誘う、いわば禁断の書だった。金子光晴沢木耕太郎藤原新也とつづいてきた日本の紀行文の文脈に登場した新しい方法として、またアジアへの旅が身近なものになった同世代の作品としてリアルに感じたのを憶えている。その後、僕がNYにいるころ知人を介してちょうど移り住んでいた彼を紹介され、日本に帰ってからも忘れたころに時々会って飲むようになる。

今回の舞台は、沖縄の島々と彼の故郷である長野の諏訪だ。小林さんは海と山という2つの場を往復しながら、そこで出会った人や風景を通して、旅と日常について、人にとっての居場所、帰るべき場所について考えつづける。彼が沖縄で出会う人の多くは、アジアの旅などを経て沖縄(多くはその離島)に辿り着いた人々だ。移動しつづける生活を経て、自分の最終的な居場所を見つけた人々。そんな彼らの活き活きとした様子が伝わってくる。彼らは旅を日常にしたのだ。そしてそれを可能にさせるものを「場が本来持っている力」だという。

「目的があること、その逆にないこと、実はそれらはそれほど大きな問題ではないのではないだろうかという気分にもなった(…)場の力が人間を上回っているとき、人は何もせずにその場にいることをただ許されるのだと思う」

一方で東京など、人間の力が場のそれを上回っているような都市では人にプレッシャーがかかってくる。東京で毎日なにもしないでぼーっとしてるのは、「ニート」なんて言われたりと相当に居心地が悪い。同じ都市でもNYではそうでもないような気がするけど。生産性、効率性、お金…という価値観。そこに合わないこと/目的性のないことをやっているとダメ人間のように言われる。でも本来は、それでもいいはずなのだ。岡本太郎も言ってるように人はもともと無根拠で目的のない存在なのだから。

小林さんは沖縄から故郷の長野へ行き、懐かしい御柱祭りを見たり、写真を撮ったりしながら自分の視線が遠いことに気づく。距離感。違和感。
時期的にいえば彼のこの一連の旅は、僕と会ったNYに来る前になる。アジアー沖縄ー長野ーNY、そして東京。彼は今も東京をベースにしながら、いろんな場所へ旅を繰り返して人に会い続けている。このシリーズは完結したのかもしれないけど、彼の旅はつづいている。

「本当は誰も帰る場所などないのかもしれない。あるとすれば、それは特定の場所ではなく、会ったことのなかった誰かに会うことや、そこで知らない誰かの言葉や感情を知ることなのかもしれない」

東京生まれで、やはり子供の頃からいろんな場所を転々としている僕自身、彼のいつも旅と日常の間にいる感覚に共感する。今はここにいるけど、いつかはまた違うところにいるような感覚。帰る場所は一応日本だとは思っているけど物理的な地点ではないし、そもそも「国」へ帰属意識は低い。場所へのつながりよりも、人とのつながりとそこで生み出されるもの。移動しながら人や出来事と出会い、いつも生成されていたいと思っている。