KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

温泉、鼻毛、キャビアと田中功起。

群馬の四万温泉でいい気持ちになって帰ろうとしていたときに、その男は現れた。といっても、田中功起ではない。泊まっていた旅館「佳元」の跡取りと思しき、小太りの中年男が勘定の伝票を持ってきたのだ。宿代を見ると、妻が電話で聞いたという値段よりもそれぞれ3千円も高いではないか。そのことを問いただすと「そんなはずはありません。うちではいつも、週末はこの値段で…」とか、「ひょっとしたら消費税が入ってない値段では?…」などといっている。消費税でひとりあたり3千円も違うはずもない。一方で妻は、電話で「二人で○○円ですよね」と確認したといっている…。

ここはいっちょ、戦うか?!とも思ったのだが、結論からいうと、時折聞き間違いもある妻のキャラもあって全面的に信じられず、先方の言い値を払った。ただ、今ひとつ腹がおさまらないのは、間近でぶっきらぼうに話していた彼の「鼻毛」なのだ。というよりも、客の僕らに対して「聞き間違いなのは、間違いなくそっちの方です」と一方的に、無愛想に接する、彼の「態度」が象徴された「鼻毛」なのだ。

ほんとのところは、どっちが正しいのかは分からない。だから、もしも鼻毛の出ていない顔で愛想よく「すみません!でも今回は、なんとかお願いできませんか」と下手に出てくれてれば、こっちも気持ちが全然違うだろうし、ここはひとつ気持ちよくお金を払って次に来るときにお世話になろうともするだろう。でもあの「鼻毛」のせいで、僕らはもう二度とあの旅館には行かないだろう。せっかく他の従業員の人たちの愛想もよく、料理も温泉にも好印象を持っていたのに。そう、問題は、サービスを職業とする人のただ一本の鼻毛なのだ。(ちなみに僕もよく鼻毛が出てることを指摘されるるけど、客へのサービスが仕事じゃないので悪しからず。)



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その後チェックアウトした僕らは、高崎県立美術館で最終日となった田中功起の特別展示を見に行く。会場には、倉庫にしまわれていたという、美術館で過去の展示に使われていた夥しいモノ(白壁や、椅子、ガラスケースから椅子、卓球台まで)が運び出されて迷路のように配置されており、その隙間に10点ほどのビデオ作品やインストラクションが散在している。「なんだか臭かった」といったのは、耳は今イチだが鼻はやけに鋭いうちの妻らしいが、過去に何かに使われた、いわば美術作品の「裏方」が、ずらーっと主役として出ているのを見るのは痛快&爽快だ。(先日訪ねたギャラリー「青山|目黒」の青山さんの子供が壁によじ登ったり、卓球をしてるのを見るのも、ふつうの展示ではなかなかないことで楽しい。)

個々のビデオ作品は、彼の今までのループを使ったものとはちょっと違い、タイトルそのまんまというストレートさ。コップにビールを一気に注ぎ、ビールがダラーッとこぼれていくさまを撮影した「ビール」、階段から次々と落ちてくるスニーカーを定点カメラで撮影した「スニーカー」、買い物袋にヘリウムを入れ、それをNYのセントラルパークの空などに飛ばす「空を飛ぶショッピングバッグ」、あるいは鳩にキャビアを食べさせる「鳩にキャビア」というように、タイトルどおりの短い映像ー日常の断片がひたすら繰り返す。そして、こういうビデオ作品の合間に「となりの人の会話に参加しよう」というようなインストラクションが貼ってあったりする。

こういう展示の全体の意味とか、それって面白いの?ということを「まとめて」書くのは、まだうまくできそうにないんだけど、一方でそうする事自体にあまり意味がないような気もする。むしろ、バラバラなそれぞれの作品が、それぞれ個々に見る人とリンクを結び、記憶と連動して新しい世界を想起させるというだけでいいんじゃないか。言葉だけはできない、モノと映像、言葉も合わせた直感的/連想的なコミュニケーションのようなものとして。

たとえば「植物図鑑」の中平宅馬(ブレボケなどのスタイルやそこにはりつく撮影者の感情などを拒否し、写真は単純に事物を描写するためにあるといった)、「All events are even」のマーク・ボスヴィック、オノヨーコ(インストラクション)、ジョン・ケージたちの作品について、もっと身近に同世代の感覚として不意に思い出す。あるいは偶然/必然、初め/終り、完成/未完成ということについて。身の回りはがいつも偶然が取り巻いているということについて、必然というものがいつも偶然で成り立っているということについて。僕らが重要だと思っていることなんて、実は単に偶然の産物にすぎないということについて…。そうやって僕の脳をサラダのように少しは撹拌してくれただけで十分な気がする。


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