KYODO HOUSE -Art of Living 近藤ヒデノリのブログ

クリエイティブディレクター\編集者\ソーシャルアクティビスト 近藤ヒデノリのブログ

ウルフガング・ティルマンズー遊泳者

池尻の中学校跡でIDEEがやっている 「ものづくり学校」を覗いてから、オペラシティーギャラリーで行われているティルマンズの展覧会に行った。彼の作品は、これまでに雑誌や写真集やNYのギャラリーでの展示で見て来たけど、これだけの大スペースでやるからには生で見たい。彼の場合は、大きな壁にポストカードサイズから巨大なものまでプリントをそのまま貼っていく展示方法に特徴があるから、生で見るのと本で見るのではだいぶ印象が違うのだ。

彼の写真は基本的には、身の回りの日常のビジュアルダイアリーのようなものだ。ファッションや広告、音楽シーンで仕事しながらその合間で撮られたであろう写真が時系列を無視して再編集され、感覚的/身体的な空間配置で並ぶ。そういう意味では、最近ブログなんかにある写真日記と大差ないともいえる。じゃあ何が違うのか?

まずは、彼のビジュアルセンス/色彩感覚。フレーミングで美しく見せる技術。もともとIDでデビューしただけに、これははっきりしている。難解だけどなんか映像がかっこいいから見てしまう人が多いゴダールのように、どのイメージを見ても色と構成美は際立っている。最近彼が取り組んでいる抽象的なイメージの他、部屋の片隅に積まれたトレーナーとジーンズ、鍵の束、窓際の空瓶に生けられた花…,撮る対象という意味では佐内正史にも似ている。でも佐内氏がいわゆる「きれいな絵」をあえて避けようとしているのに対して、ティルマンスはきれいな絵をつくるのに意識的だ。身の回りを等価に、美しい絵にしてしまうフォーマリスト。Equivaent。でも、ただそれだけだとしたら過去にいくらでもいる。というか、大抵の写真家はそこに留まっている。

政治的でないようで、政治的であること。徹底的に表面的であること。これは彼がすべてを等価に美しい絵にしてしまうのに関係している。資本主義を象徴する金の延べ棒であっても、ブッシュ反対へのデモ更新であっても、ゲイのカップルのキスシーンでも、彼はその表面を写真に定着させ、等価なビジュアルの一こまとして並べてしまう。あからさまに反対するとかではない。「それも全体の中のひとつにすぎないよね、そんなに重要なものでもないし」という感じで等価にしてしまうことで、それらの力を奪ってしまう。

個人的でありながら、開かれていること。個人的というと、日本でいう「私写真」の系譜アラーキーや、ヒロミックス、あるいはナン・ゴールディンなんかが思い浮かぶ。アラーキーが東京という都市の人(とくに女/身体)に特化し、ヒロミックスが「マイ・ワールド」、ナン・ゴールディンが、ドラッグとエイズに犯された自分の仲間たちを対象にしていたのに対して、彼はもっと広く、世界に自分を開いているように見える。あるいはモダニズムのアーティストたちが自分を追求し、完全な自分の世界をつくろうとしていたのに対して、世界の中を泳ぎ回ってモノを見まくり、ほとんど自己というものがなくなるくらいまで開ききり、自分の見たもの、それへの反応を形にしていく。サンプリングマシーンのように。

僕らはモノを見た時、いつも何か過去のイメージを思い出す。過去も現在もミックスする対象としては等価なのだ。同じイメージが何枚か繰り返されていたりもする。こういうことはふつうの写真展では絶対ないけど、実際の僕らがモノを見るときの経験としてはリアルだ。イメージはそれが何とリンクしているかによって、意味も変わってくるのだから。実際に、巨大な空間に彼の大小の写真が点在する中にいると、彼の現在(の展覧会場に合わせて写真の配置を決めた時点)脳内に写った風景をそのまま見ている気がする。彼が世界を見た経験、その時に思い浮かぶイメージのリンクを体感できるという感じ。そんな風に外部の変換機として自分を外の世界に開ききり、「いま」を編集しつづける彼の作品は、とてもリアルに感じられた。


他に、ティルマンスについてトークショーなどを交えて書かれたBLOGを見つけたので、
リンクを貼っておく。ほんとうは僕も先週行こうと思ってたのだけど、混雑を予想して避けたのでした。
http://d.hatena.ne.jp/solar/
http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20041017